目次

topへ

動画のページへ

聖書が与える人生観・世界観ー創世記(1)

聖書が与える人生観・世界観ー創世記(2)

聖書が与える人生観・世界観ー創世記(3)
聖書が与える人生観、世界観ー創世記(1)


 皆さんが聖書を手にされて、最初のページを開かれると「創世記」という、大変興味深いストーリーが描かれています。

 大変分量は多いのですが、それだけ読み応え十分です。

 創世記という言葉は、ヘブル語で「はじめに」という言葉です。旧約聖書を新約聖書のギリシャ語に直した翻訳には「起源」という言葉が用いられています。

 この天地万物の初めはどうだったのであろうか、その起源はどこなのかという事です。

 けれども、そうした私たちの関心事を聖書は科学的に私たちが納得できるかたちで記しているのではありません。創世記の書き出しの叙述は、永遠の初めから神がおられて、この世界が神様の意志と目的によって造られたという、私たちの信仰を呼び起こす形で記されているのです。

 ブルックマンという神学者は、「それは説明され得ないであろうし、分析されることもないであろう。それは、是認され、告白され得るのみである。」と述べています。

 神様という方がおられ、神様が意図と意志をもって造られたものがある、そしてその二つのものが結び合わされていくーこれが聖書の主題であるわけですが、創世記はその聖書全体の土台を成しているものなのです。

 この創世記1章の記述は、こののち聖書の中に起こってくるすべての事柄の前提です。神様の愛、人間の罪、罪のゆえに堕落した世界、罪人に対する救いなど聖書の真理は、すべてこの創世記に最初の芽を見ることができます。

 では、この創世記第1章に目を向けていきましょう。すべてのものに先立って存在される神は、一切のものの創造者であるという書き出しです。

 つまり、聖書は初めから、創造者と被造物という二つの立場で私たちに迫っています。

 神の存在は客観的に分析され、確かめられた上での論述ではなく、一方的に神の存在が前提とされています。

 ですから、ある人々はここでつまずいてしまうのでしょう。神の存在を信じないという人は、ここでもう聖書を読むのをやめてしまうかも知れません。

 皆さんは進化論を学んでこられたと思います。私は最近になって、進化論が出来た背景を知りました。タンパク質からアメーバーに進化し、猿になり、さらに進化して人間になった、そうした考えは、チャールズ・ダーウィンのお父さんが、あるクラブを作っていて(目的は、神がいないことを証明する)、神様はいないということを証明するために考え出した仮説だということです。

 確かに、この世に神はいないという考えで、人生を過ごしていくことも出来るでしょう。もしその立場に立つとすると、どういう人生観、世界観を持つように人はなるでしょうか。

 進化の過程は今に至るまで、誰一人として目撃した人は存在しないのです。科学の世界において、そこをどのように説明するかというと、突然変異、すなわち偶然ということになるのです。

 とすると、神なき人生観というのは、人生を運命や偶然というあいまいで不安定きわまりないものに委ねる、あるいは、自分という閉ざされた枠の中でもがいたり、あくせくしたりという、自己中心な生き方を人生と思ってしまうものになってしまうのではないでしょうか。

 けれども、一切のものの創造者がおられ、その方の無限の力と愛の御手が、被造物なる私たちに伸ばされていることを信じるなら、その人の人生観は、創造主なるお方に結び合わされて安定と平安に満ちたものとなるのです。

 それが、この聖書の、そしてわけてもこの創世記第1章を通して語られている招きなのです。

 それでは、私たちが神の存在を信じ、創造主なる神に自分を委ねて行くとき、どのような人生が開かれてくるのでしょうか。

 それは、聖書全体のテーマであるということになるわけですが、この1章から3つの言葉で表現されるものに心を留めましょう。

 これは、ある方の表現なのですが、私もすばらしい表現だと思います。

 まず、調和ということです。

 神様の創造は、この世界にも、私たち神を信じる者の人生にも、調和を生み出すものであります。創造主なるお方は、聖書では無から有を生じるお方と言われていますが、それと同時に、2節を見ると、形のない、つまり人の住めるような場所ではない混沌とした状況から、一つ一つ秩序を設けていかれるという神の働きを見ます。

 あらかじめ意図された青写真をもとに、このように造りたいと願われた地球を、混沌としていた中から、言葉、すなわちはっきりした意志をもって秩序づけ、区分していかれました。

 そして見事に調和されたのです。

 ここで新約聖書のコリントの手紙第二4章6節に目を向けると、この調和は私たちの人生に与えられるものであることがわかります。
 
 私たちの人生は、キリストの光、神の栄光の光に照らされるまでは、まさしく、天地創造におけるあの混沌とした状態ではないでしょうか。

 どうしようもない、どこに解決を持っていったらよいかわからないような悩みはないでしょうか。

 何が問題というより、私がこの世に存在していく、生きていくということ自体に心底楽しめない、喜びがない、それは人生の根本的な問題です。

 フランスの数学者、哲学者であるパスカルはこのように言いました。「すべての人の心には、神が造られた空白がある。この空白を物質で満たすことはできない。それができるのは、イエス・キリストによって知る神ご自身である。」

 あなたが創造主と関係を結ぶならば、あなたは調和された美しく魅力ある人生が開かれてくるのです。

 創造主と被造物との中に生み出される第一のものは、調和であることを見ました。

 第二は、信頼ということを見ます。

 調和という言葉もすばらしい言葉ですが、信頼という言葉は何とすばらしい言葉でしょうか。

 26節以降を読むと、神の創造の行為によってできたすべての被造物のうちで、神が直接に語りかけているのは人間だけです。

 これは非常に重要なことです。

 他の被造物は直接語りかけられていません。それとは対照的に、28節では、神は人間に語りかけ、29節では、神は二度「あなたがた」と彼らに言葉をかけています。

 人という被造物は、他とは異なった親密な関係を神とのあいだに持っています。

 神のかたちにという叙述は、他のあらゆる宗教の偶像に反対の主張をするものです。

 この世界の中に神の形が描かれるただ一つの道がある、それはただ一つだけであり、人間がそれである、ということです。

 人間だけが、他の被造物と違って、神のリアリティをあらわにするものとして造られたのです。

 しかし、これは何と貴いことであると同時に、危険なことでもあるでしょうか。

 それは、人間にそのような使命を与えながら、人間をそのように固定し縛るのではなくて、そのように造られた人間を神は尊重し、自由な意志をもって応答するようにとされたからです。

 このように創造の出来事を見るとき、神は私たちにどれほど信頼しておられるかに心を打たれます。

 そして、私たちが生きるとは、創造主のこの信頼に応えていくものでなければならないことを知るのです。

 第三に見ることができるのは、感謝ということです。

 創造の働きのなかで、神は秩序が出来上がるたびに、「見て、よしとされた」と言われました。また、すべての秩序が出来上がったときには、「見よ、それは非常によかった」と思われたのでした。

 これはやがて来る天国でも聞かれる言葉でしょう。

 聖書の初めと終わりの言葉は、感謝の言葉です。

 しかし、私のうちには神様の感謝が見られるでしょうか。神様の言った通りの私、よしとされる今の私になっているでしょうか。
 
 非常に良かったこの世は、堕落した世になってしまいました。

 けれども、神は、最後にもう一度、はなはだ良かったと感謝できる世界になるために、今に至るまで働いておられます。

 そして、どんなに落ち込んだ人生であっても、神はイエス・キリストにあって、あなたの人生を私に委ねよと招いておられます。

 この創造主に結びついて、終わりの日の感謝に向かって自らを整えていただきましょう。

                       
                topへ

クリックすると 音楽が聴けます
始まるまで少し時間がかかりますがお待ちください・・・
2008賛美礼拝@「Smile」
長沢崇史さん「主の園のように」
長沢崇史さん証し 賛美「一緒に」
2008賛美礼拝A「その日全世界が」
2008賛美礼拝B「今ここに」
2009賛美@「本当の愛伝えるため」

 
  
聖書が与える人生観、世界観ー創世記(2)


 皆さんは、自分の好きな数字というのがありますでしょうか。縁をかつぐ人なら、私のラッキーナンバーなどというのがあるかも知れません。

 私は子供の頃、野球をよくして遊びました。また、父が熱心な野球ファンだったので、よくテレビで一緒にナイターを見ていました。

 父は大阪の人なのに、なぜか巨人ファンで、特に長嶋茂雄が大好きだったのです。それで私も父の影響を受けて、背番号3番という、3の数字を夢見た頃がありました。

 また、16という数字も好きでした。それは、私の子供の頃、巨人の星というアニメ野球ドラマがはやっていて、わたしも大好きでした。そして、星飛雄馬というアニメのエースピッチャーの背番号が16だったのです。

 わたしの実家のある町は大阪の下町で、その頃は内風呂がない家も多く、銭湯がにぎわっていました。銭湯に行きますと、下駄箱があります。靴を入れて札を上から抜くと鍵がかかるのですが、わざわざ遠くにあっても3番や16番に入れていたのを思い出します。

 そういうわけで、私にとっては、3や16という数字は特別な数字だったんですね。

 聖書にも、その数字に意味のあるものがあります。

 そのうちの一つが、7という数字です。

 たとえば、人の過ちをゆるすという場合、ユダヤの人々は7回までと考えていました。そのことをイエス様に尋ねにきた人に、イエス様は7度を70倍するまでとお答えになりました。

 イエス様が言われた70倍というのは、どこまでも限りなくという意味ですから、7は完全という意味を聖書の中では与えられていると考えることができます。

 さて、創世記1章の内容に移りましょう。天地創造が完成されていくところにも、この7という数字が出てきます。

 天地創造のみわざが語られている2章の3節までを見ると、神は7日間でもってそのわざを成し遂げられたことがわかります。

 この一日の長さは今の一日と同じなのでしょうか、太陽系が造られ昼と夜が出来上がる前に三日経っているのはどういうことでしょうか、その質問に答える前に、まずここでは天地創造の出来事は一気に造られたのではなく、7つの区切りというのが神様のなかにきちっとあられたということを覚えて下さい。

 前回、第6日目までを通して、そこまでのみわざに見ることのできる、調和ということ、人に対する信頼ということ、そして感謝ということを見ました。

 今回は、第7日目についてです。第7日目の内容は簡単です。 神様が休まれたということ、それだけです。

 しかし、なぜ神様が休まれたということが、あえて一日に数えられるほど大事なのか、この第7日目の意味は、実に深いものがあります。

 神様がもし人間のようなら、この天地創造の仕事は、あの混沌とした中からだったから、きっと疲れたのだろうと考えるかもしれません。

 しかし、聖書のイザヤ書40章28節や詩篇121篇3節を見ると、神は疲れることがないといわれています。

 それでは、6日目ですべてのわざが完成していたにもかかわらず、なぜ7日目をあえて設けられたのでしょうか。

 6日目の終わりから7日目にかけて記されている箇所には、6日目のみわざの終わりに、神様はすべての出来上がったものをご覧になられて、「非常によい」とおっしゃられました。

 これは、出来上がったものは、みな神様のみ心を満足させるものであり、神様のみ心を喜ばせるものであったということです。
 
 そして、そのことからつながって第7日目に神様は何をなさったのかというと、完成の宣言をされたと記されています。宣言です。

 私たちの日本は過去に太平洋戦争がありました。

 最後はどう見ても勝ち目はありませんでしたが、当時の軍部は敗色濃厚なことを国民の前に認めたくありませんでした。

 しかしついに、ポツダム宣言を受諾せざるを得ない時がきました。

 そして、当時は現人神と奉られていた天皇陛下が、マイクに向かって、日本は負けました、これで戦争は終わりましたと伝えました。

 その宣言がラジオを通して全国民に流され、全国民はそれを聞いて敗戦を知りました。

 宣言とは、そういったものです。

 神様は、全ての造られたものに向かって、これで完成だと告げられ、全被造物は神様のその声を聞いたでありましょう。

 そして、聖書を見ると神様はさらに、その日を祝福されたとあります。

 祝福という言葉は、この創造のお働きの中で、ここを含めて3回出てきます。

 22節と28節には、生き物たちが地に殖えるようにという祝福、そして、人間が地の管理者として用いられていくように、という祝福がされています。

 では、第7日目の祝福は、どういった祝福でしょうか。

 2章3節を見ると、「この日を聖とされた」と言われています。

 聖という語は、私たちが聖書に出会って、初めて深く心に留める言葉だろうと思います。

 聖という語は、語源的には「分離」という意味です。

 一般の基準より引き上げられることです。

 そして、神様の目的のために選び分けられるとき、これを聖というのです。

 このように第7日に私たちは、宣言、祝福、聖ということを見ます。

 そのような内容が、神様が休まれたということのなかに含まれているのです。

 私たち人間は、休みが必要な存在ですね。

 でも、この第7日目の休みは、疲れてちょっとひと休みというのとはまるで違う、そういう消極的な意味ではなく、もっと積極的な意味であることがお分かりいただけたことと思います。

 このことがわかってくると、日曜日という日の意義が、単に休むというのとは違う、もっと尊い意味があって、それゆえ日曜日を聖日と呼ぶのだということもわかってきます。

 「休まれた」とある言葉は、語源は「断つ」とか「控える」という意味です。

 これは、行動の神、まどろむことも眠ることもなく働き続けておられる神様が、わざをやめてその一日を、喜びと満足のために安息の日として使われたということなのです。

 そして、大切なことは、この安息の日が最後にあって、はじめて一切の満足があるのだということです。

 この安息の日がなければ、神様のわざは、まだ未完成ということなのです。

 十戒の第4番目には、安息日の定めが、神様の選ばれたイスラエルの民に与えられています。

 神様だけが、創造の最後に安息されたのではなく、選民イスラエルにも神様はそれを求められました。

 それは、神様がこの世界を愛をもって呼び出し、人間にその管理が委ねられたとき、人間がこの世界を用いさせていただく上でも、神様の意向に沿っていることを神様は求めておられるということです。

 私たちがこの世に生きているのは、おのれの力で生きているのではなくて、神様からいのちという賜物をいただいて生かされている、ということは、生きるとは自分たちの自己保全のための熱き働きにかかっているというのではなくて、もっとゆったりと、一週間に一度、立ち止まって一息いれるような中休みがあってもよい、という招きなのです。

 そして、イスラエルの民は、神様わかりました、私たちは自分の目的のために、何かを得るために働き続けることはいたしません、一週間に一度は、手のわざを休めます、そのことをすることによって、自分たちのいのちが、自分のものではなく、あなたからの賜物であり、自分たちを養うのはあなたであることを告白いたします、という、この安息日は神に対する信仰の表明だったのです。

 ブルックマンという学者は、安息日を守ることをこのように述べています。

 「安息日を守ることは、何ものかを達成するための、また我々の意に即したイメージに作り上げようとするための、あらゆる努力を断ち切ることである。」

 つまり、一週間に7日、つまり、神が聖と言われ、休まれた時間をも人間が自分のために、またこの世界を得るために、働き続けることは、創造の目的を超えた人間の傲慢であり、神を押し退けることだということです。

 こういう話を読んだことがあります。

 かつて、アメリカ大陸に移住した人々は、ほとんどの人々が大西洋岸の地方に住んでいたのですが、その当時のアメリカ政府は、「カリフォリニア州に金のよく出る土地があるから、希望者は移住するように。誰でもそこに移住して、自分の望むだけの土地にくいを打ち込めば、その打ち込んだところはその人の土地になる。」と知らせました。

 すると、多くの人々がこのよいニュースを聞いて、全財産と家族をほろ馬車に積んで移住することになりました。

 カリフォルニア州までほろ馬車で旅行することは、何ヶ月もかかる大旅行であったにもかかわらず、誰もが一足先に到着して、最も良い土地を自分の欲しいだけ得るために、目の色を変えて、目的地へ目的地へと馬車を急がせたのです。

 ほとんどの人があまり休むことなく、日夜旅行したのですが、そのグループの中に、ひとりの人が入っていました。

 彼も、家族と財産をほろ馬車に積んで、人々と同じように旅行をしました。

 しかし、この人は、他の人々と一つだけ違っているところがありました。

 それは、月曜日から土曜日まで旅行すると、土曜日の夕方には、馬を車から解き放ち、馬車も手入れをしました。

 次の日曜日は、旅行を中止し、家族は神を礼拝して、一週間の神の守りを心から神に感謝し、一日ゆっくり休息しました。

 人も車も休息しました。

 そしてまた月曜日になると出発して、土曜日まで旅行し、日曜日には休んで神を礼拝しました。

 他の人々は、日曜日も休まず、目の前に置かれている良い地を得るために前進しました。

 こうして幾月かの後、カリフォリニア州の目的地に一番先に到着して、最も良い地を手に入れたのは、日曜ごとに礼拝して進んだ、その家族だったのです。

 その家族は、みな健康でした。そして馬も丈夫で、馬車の破損もありませんでした。

 他の人々はというと、着いた人々は疲れ果て、ある人は病気になり、ある車は途中で壊れ、ある馬は過労のため倒れて、実に悲惨な状態であったというのです。

 この話を聞いて、生き方を変えて、大きな祝福を手にした人がいます。

 その人はある事業をしていましたが、人が8時間働いたら自分は9時間働く、ほかが月4回休んだら自分は月2回しか休まないといった人でした。

 でも、神を信じてからは、工場がどんなに忙しくても、仕事は休みました。

 その結果、家族はみな医者にかかることもなく、健康で、従業員ともうまくいって、事業も以前より喜びをもってすることができるようになりました。

 今、私たちが住んでいるこの世は、狂乱状態に感じます。

 コンビニ、携帯電話、インターネット・・・そうした文明の発展は、人間をどこに導こうとしているのでしょうか。

 生活が便利なように便利なようになっていく、その裏側で、休むことや、待つということが、価値の無いように思われて、何でも早く、すぐに、待たないで、手に入れることに価値がある、そうした風潮です。

 実は、この背後には、この安息日の価値を人間から奪おうとする、巧妙なサタンの策略があるのです。

 しかし、私たちは真に意義深い人生を送るために、時代に流されることなく、自分のなかにこの安息を位置づけていかなければなりません。

 どのように位置づけていくのか、今の社会構造のなかでは、日曜日も休めないという方もおられるでしょう。

 休みを物理的だけに考えるのではなく、本質的に考えなければなりません。

 つまり、いのちは神の賜物というあかしを、どのように自分の人生に立てていくのかです。

 休むという言葉の意味である、断つという視点に立って、いかに人生の安息を確立するかです。これには努力が必要でしょうが、大きな祝福が約束されているのです。

 長くなりましたが、最後に、聖書の新約聖書で言われている安息について、一箇所だけ見るなら、ヘブル人への手紙4章1−11節というところに、言及されています。

 そこに記されているのは、モーセに率られてエジプトを出た人々が、カナンの地、すなわち神様の賜物や祝福を疑って、信じないばかりか、それを悪く言ったために、そこに入れてもらえなくて、荒野を40年間さまよって、みな死んでしまったという、旧約聖書の有名な出来事です。

 その世代の人々は、不信仰のゆえに安息の地に入ることができませんでした。

 同じように、今、イエス・キリストという、私たちの人生の良き羊飼いのもとに、真の安息が用意されているのに、信仰によって入ることをしないならば、あなたの人生はあの旧約の民と同じように、人生をあちらこちらと迷路のようにさまよい、荒れ野に疲れ果てて、あげくのはてに自分の人生は何だったんだろうと、神をのろい、他人をのろい、環境をのろい、自分さえものろって死んでいくかもしれませんよという、愛の警告なのです。

 本当の意味での安息日であるイエス・キリストは、わたしのもとにきて、あなたの人生の荷をおろしなさいと、私たちを招いておられるのです。

                         

                                                           topへ
聖書が与える人生観、世界観ー創世記(3)


 聖書の一番初めの書である、創世記を通して、聖書が与える人生観、世界観を学んでいます。

 これまでのところは、神様の天地創造のみわざが7日間にわけてなされ、一つとして神様の不満足はなく、みな非常に良かったと言われた内容を見ました。

 そして、その宣言と安息の一日を設けられて、わざを行うとともにわざを休むことも、また喜びなのだということを見てきました。

 第三回目は、その続きに記されている箇所です。

 実は、ここを前の連続として読むなら、少し違和感というか、違った印象を与えるところです。

 しかし内容は、前と何ら矛盾するところはありません。

 ここまで見てきたことは、神様の創造のみわざの全体像でした。

 それに続くこの箇所は、創造の最後に造られた人間の、特に人間性というものに、焦点が当てられているといってよいでしょう。

 この箇所を、3つの言葉をキーワードにして理解してみましょう。

 最初のキーワードは、満足ということです。

 1章において、神様は人間を神様に似るものに、神様のかたちに人を造られたとありましたが、ここでは、神様が土をとられて人を造られ、鼻に神様の息を吹き込まれました。

 この息という言葉は、神の霊ということばと同じ言葉が用いられています。

 ここに、人間という存在が、ただ単にことばによって神様に呼び出されただけのものではないことがわかります。

 もちろん神様は、ことばで人間と関わりを持たれるのですけれども、初めはもっと神様が手をかけて人間をお造りになったのです。

 そう思うと、ここに、まず私たちの満足すべきことがないでしょうか。

 さらに、神様は人のために、この地上に一つの園を設けて下さったとあります。

 そこには神様が、目に麗しく、食べて美味で健康になる、たくさんの種類の果実を生えさせて下さったのです。

 また園を静かに流れ、園を潤す川がありました。それは木々の生育のためのものだけではありません。川の流れは、それを眺める人の心をいやす力も持っていました。

 そのように神様は、人が快適に暮らせるように、その園にすばらしいご配慮をされたのです。

 ですから、きっとアダムは、この園に満足したに違いありません。

 そして、もう一つの満足すべきことを、この箇所から見ることができます。

 2章15節には、神様がアダムに、その園を耕す仕事を任せられたとあります。

 これはとても大切なことを意味しています。

 エデンの園は、神様が人のために一方的に用意してくださった賜物ですが、その園に手を入れ、自分自身とまわりの生き物たちのために、よりよく管理し育てていくという働きが、人に委ねられたということです。

 ここに、生きるということは何なのか、という、人間の根本的な問いの答えがあります。

 私たち一人一人が命を与えられ、そして生かされている場所がありますね。

 それは、一方的な神様からの賜物です。

 私たちは、神様からいただいたその賜物なる自分の人生を、自分のために、またまわりのために、より良いものとしていくのが人生ということなのです。

 アダムにとって、この園をそのように管理して、これを委ねてくださった神様に喜んでいただくことは、最高の満足であったでしょう。

 私たちも人生をそのように、神様のみこころ通りに使っていくとき、真の満足があるのです。

 アダムは最初から理想的な環境に生かされていたが、私はそうではない、と思われる方もいるでしょう。

 そのことについては、次回に少し触れることにします。

 ただ、次の3章において、エデンの園は人にとって遠いところになってしまいます。しかし、そこからも神様はなお、人に働かれるのです。

 それが聖書のストーリーです。

 神様は、状況が理想的でなくなっても、絶対あきらめないお方なのです。

 神がそうされるのですから、私たちもあきらめたり、投げ出したりすべきではありません。

 私たちは、どんなに大変な状況でも、神とともに歩むことができます。

 そうするなら、暗黒の中に光を生じる神のみわざを見るのです。

 
 また、土を耕すといった単調な仕事も、神様のみわざに参与しているという気持ちを持つことによって、楽しい仕事になります。

 勤労は、どんなものであれ、神様に対するものに引き上げることができます。

 新約聖書のなかで、イエス様は弟子たちの足を洗われた場面で、しもべのする行為を「仕える」という尊い領域に引き上げられました。

 私たちは、神様を知り、神様に仕えることによって、高い精神をもって人生を生きることができます。

 そういった意味で、この箇所の最初のキーワードは、満足と表現することができると思います。

 二つ目のキーワードに進みましょう。

 それは、自由ということです。

 16節を見ると、神様は人が自由にどの木からでも思いのまま、食べてよいと言われました。

 このことは、ただ食べるということに限定的に考える必要はありません。

 生きるということ全般において、神は人間に直接干渉はされないというメッセージなのです。

 この、生きる上での自由という権利は、ヨーロッパの近代社会形成の途上で、個人の自由の権利の保障が基本的人権として確立されたものですが、すでにこのところで、人を造られた神が保障しておられることなのです。

 しかし私たちは、この自由を正しく理解して用いてきたかというと、自由を与えられたということだけを喜んだり、自己主張したりして、その自由をどう活かしていくかということについてはなおざりにしてきたのではないでしょうか。

 そこで私たちは、自由を与えられたものとして、自由をこのように使ってほしいと願っておられる、神のみこころを聖書から学ぶべきです。

 新約聖書のなかに、学べるみことばがたくさんあります。

 「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」(ローマ人への手紙15章1,2節)

 「すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とは限りません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとは限りません。だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。」(コリント人への手紙第一 10章23,24節)

 そして、この創世記2章のもう一つのテーマである、人が助け手を得るということがらのなかにも、私たちに与えられた自由を見ます。

 神様は、人が一人でいるのは良くないと言われましたが、神様ご自身が人の助け手になろうとはなさいませんでした。

 もちろん神様は、私たちを守り導くお方ですけれども、ここで言われていることは、人間が対等な意味で助け手となれる存在の必要ということです。

 神様は、まずいろいろな動物を連れてこられ、人と過ごしている様子を眺められました。

 でも、そのなかには、ペットとなれる動物はいても、真の助け手となれる存在はいませんでした。

 そこで神様は、もう一つの創造のわざをここでなさいます。

 もう一人の人、女の人が造られる様は、この1章1節から2章4節に続く、もう一つの創造といってよいものです。

 神様は、人から人を造られました。

 つまり、最初の人は、そのことによって、ある部分が無くなりました。

 そして、自分のない部分と出会うまで、完全な自分になったという意識が持てないようにされたのです。

 これは、人間の結婚という営みが、ただ動物のように、子孫を残すためだけではなく、精神的な満足という、高い質に引き上げられたということを物語っています。

 ですから、私たちは結婚生活において、何が満たされるよりも、精神的なものが満たされないと、幸せを感じることができないのです。

 結婚については、新約聖書が豊かに教えていますので、ここでは触れませんが、神様は私たちが、ただおいしいものを食べて満足する、仕事をして満足する、それだけではなく、また神様を礼拝するという満足だけで十分というのでもなく、人と人との交わりを通して満足するものとして造られたということを、そしてそれが特に夫婦のあいだに言われていることを、心に留めておきましょう。

 さて、最後のキーワードは、禁止ということです。

 17節に、禁止事項があります。

 園の真ん中にある、一本の木を食べてはならないと言われました。

 このことがらの内容に、ここでは立ち入りません。

 覚えたいことは、人に与えられた、命じられた禁止事項は、一つだけであったということです。

 先ほど言いましたように、神様は、人の営むほとんどのことに干渉はしないと言われました。

 ただそれを見守るだけである、と。

 それは自分で決める特権なのだと。

 自由の中で、楽しむべきだと。

 ですから、そういうふうに見ていくと、いくつかの約束事というのではなく、一つの約束事、それは神様と人間とのあいだにある、信頼関係の象徴であったということができます。

 神様と人とのあいだに置かれていたものは、エデンの園でした。

 それはすでに見たように、満足を与えてくれるもの、自由を味わわせてくれるものでした。

 神様は、これらを信頼関係の上で、祝福として与えたいと願われたのです。

 そして、神様が人を信頼している証拠となるべきものが必要でしたし、人がまた神様を信頼している証拠となるものが必要でした。

 それが、一本の木だったのです。

 神様は、人を信頼していなかったら、その木をあらかじめ園に置くことはしなかったでしょう。

 あるいは、木のまわりに何かのしかけをしておいて、もし人が近づこうものなら、そうさせないようにしたでありましょう。

 でも、そうはされずに、互いの信頼として、約束が交わされたのです。

 神様がそのようなことを通して、人の自由を制限された意図はどこにあるのでしょうか。

 それは、神様は、私たちの心のきよさ、美しさを求められたのだと思います。

 神様のおっしゃったことは本当だ、と単純に信じていく、心の美しさです。

 彼らは、サタンの声を聞くまでは、その美しさを持っていました。
 
 ですから、彼らは神様を見たのです。

 聖書に、心のきよい人たちは幸いです。彼らは神を見るからです、といわれています。

 神様は、人にすべてを与えるのを惜しんで、一つだけはだめだよ、とおっしゃったのではないのです。

 そのことを守ることによって、人の心がいつもきれいで、神様を仰ぎ見ることができるよう、その木を置かれたのです。

 私たちは、アダムの子孫として皆、生まれながらに反抗的な心を持つ存在となってしまいました。

 神様に聞き従おうとする心に、そうしたくない自我が対抗します。

 しかし、私たちもきよい心を得る道があります。

 ぜひ、続けて聖書を学んでいきましょう。

 ここまで、聖書の一番はじめ、天地創造の箇所を学んできましたが、神様がどんなに私たち人を愛して、良いものを与えようとしておられるかがおわかりいただけたでしょうか。

 これが、私個人にも、また、すべての人にも与えられているものなのです。

 今の世は、このようなことを一切教えられず、進化論を土台とした経済原理ですべてが進められています。

 そのようなもので、人の心が支配されることは、非常にさびしいことです。

 私たちは、聖書の立場に自己を確立して、真に豊かな人生を送っていきましょう。

                          topへ


     topへ 

 topへ